【第2話】catholic Re:load(1732A.D.-2275A.D.)
Eve Eliseva von…
五歳のときに引き取られてからずっとチェコ領のプラハで暮らしてきたが、イヴは自分のことをドイツ系だと思っている。
だから自殺する場所としてドレスデンを選んだ。
別に、プラハでもよかったのだが、先祖の土地で死のうと思ったのだ。何となく。
チェコ領はユーロ連邦の端で、かつてはポーランドという国だった土地にあるブロツワフ・クロスという資本主義国と隣接している。
西側はドイツ領と繋がっていて、プラハからドレスデンまでは電車で一本。途中の車窓越しの景色は自然豊かでのどかだった。牧羊犬が羊を追いかける様子や、ヤギが草を食べる姿も見ることができた。
それがドレスデンに入るなり、雰囲気はがらりと変わった。 高層ビルが並んでいて、人の往来も多い。
プラハは歴史的建造物の保護を目的として昔ながらの低層物件が多いから、見慣れない景色に興味を惹かれた。
驚いたのは、人工的に太陽の明るさを演出する照明設備だ。これがないとドレスデンは晴天でも暗い区域が多数あるらしい。
その他、地上から最上階までを五つに分けた階層というシステムも珍しかった。
高層ビル間を繋ぐ天空道路が各所にあり、さらに天空道路から入れるテラスという広いフロアに公園や低層物件が設置されている。
これは空の埋め立て地ともいえる場所で、海と違って下の階層に人間たちがいる。テラスの真下は太陽光が阻害されて真っ暗だ。それで照明設備が大活躍する。職場や住居によっては階層を移動せずに生活が可能だという。
地上に降りずに暮らすというのは、どういう気分だろうか。
階層が高ければ高いほど富裕層が多いと予想したが、逆だった。富裕層は地上に集まっているらしい。つまり高級ブランドショップや五つ星ホテルなどは地上にある。
今しがた嬉々として見学した最上階のテラスにある教会は、庶民向けというわけだ。
庶民とはいっても、ユーロ連邦に貧者がいるわけではない。
ユーロ連邦は新・共産主義で、生まれてから死ぬまで全ての国民が一律金額のベーシック・インカムを毎月受け取っている。
せかせか働かなくても生活ができるから、フルタイムで働く生活を選ぶのは目的があるか働くのが好きな人間だけで、それ以外は週三から四日程度の労働で暮らしている。
ヨーロッパの歴史上最も恵まれていて豊かな時代。イヴもベーシック・インカムを受け取っていて、今回の旅費はそこから捻出した。
教会を出て、テラス内にある森林公園を散策した。
監視カメラに映らないように気をつけていたが、もう関係ない。自由に観光できる最後の瞬間だ。
しばらくして、女性のすすり泣く声が聞こえてきた。
光に吸い寄せられる蛾のように近付いたら、黒いスーツを着た男性たちが茶色い棺を運んでいるところだった。棺がゆらゆら揺れて、時々擦れる音がした。風の音と交じり合って協奏しているかのようだ。
墓地へ向かう棺の中にいるのは、私ではないのか――
イヴは自殺できない宿命らしい。
首吊りはロープが切れて失敗した。手首を切って湯に突っ込んで完遂しようとしたら、包丁が錆びていたのか切れなかった。直後に新しいものを買ってきて腹部に突き刺そうとしたら、新品なのに折れた。
他にも色々試したが、どれも上手くいかなかった。
家の近所の教会に行って打ち明けたら、神父に『神が救っているから』と言われた。
イヴは五歳で洗礼を受けたカトリックだが、信じられなかった。『呪い』か『罰』のような気がする。その直後、神父は襲いかかってきた。十字架や大天使の絵画の前で。
観光客たちが忘れものを取りに教会に戻ってきて、神父を取り押さえてくれたから未遂に終わったのは不幸中の幸いだ。
あれだけではない。
カウンセラーも、警察官も、二人きりになったら豹変した。毎回誰かが助けてくれたからイヴはまだ処女だが、正直嫌気が差している。
彼らは皆、同じ目をしていた。
二人きりになっても何もしてこなかった男性は、カレル・ヴァインガルデンと養父だけだ。だから彼ら以外の男性のことは警戒しながら生きてきた。
そういうのも、疲れてしまった。
でも、今日で終わる。
テラスを適当に歩いていると、カフェのガラス張りの入口越しに時計が見えた。
午後四時前――
偽名で泊まった安いホテルで決行してもよかったが、戻りたくなかったから連泊の申し込みはしなかった。ベッドが傾いていたし、シャワーのみでバスタブもなかったし。
丁度いい場所を探してあてもなく歩いているうちに、見つけた。テラスの端の人通りが少ない場所にある古くて狭い教会。
誰もいなくて、鍵もかかっていなかった。
これからやることは夜のほうが成功しやすいらしい。だからイヴは隅に腰を下ろして四時間待った。
そうしてすっかり夜になり、電気を点けていない室内は暗くなったが、外の照明の光がステンドグラス越しに差し込んでいるから困らなかった。
祭壇の前に移動して十字を切った。でも、すぐに滑稽なことをしたと後悔した。
イヴは今から、『自殺できない私を死なせてくれ』と大悪魔にお願いする。きっとここで祈る資格はない。
召喚するために、円の中にシジルという大悪魔の紋章を描く。大きさの指定はないものの、小さすぎても不安になる。チョークを持つ手を伸ばして大きめに描いた。
たったそれだけ。
これを教えてくれた存在はイヴなら呪文なんていらないと言っていた。
半信半疑でもシジルは紫の光を帯びた。
円の中央から頭頂部が、続けて顔が出てきて、首、上半身、下半身――呆気に取られていると、黒髪の青年が姿を現した。
描いたシジルは消えて、ただの古い床に戻っている。
「俺は偉大なる大悪魔セーレだ。よくぞ召喚してくれた」
陽気で大袈裟な態度だ。
イヴは相手を観察した。人間と同じ姿をしている。翼は生えていない。イヴと同じくらいの年齢に見えるが、服は古風だ。赤と青のけばけばしいデザインで、昔のフランス領の貴族が着ていそうだ。
「私はイヴ・イェドリツカです」
セーレがイヴの頭に手のひらを置いた。触れられている感覚がある。通り抜けていない。大悪魔は肉体が存在しているらしい。
「触れただけでお前が何者かわかる。契約成立だ。願いを言ってみろ」
これで願いが叶うなんて簡単すぎて驚愕だ。
「本当に叶えてくれます?」
「叶えるために召喚に応じた」
セーレはイヴの頭から手をどけた。
「では伝えます。私の願いは死ぬことです」
「死か。普通は生きたいと願うのに。まあいい。叶えてやろう。俺の手を掴め」
セーレがイヴに手を伸ばした直後――
油が足りていない古い蝶番からキーッと耳障りな音がして、その次に木のドアが勢いよく開きすぎて壁にぶつかった音がした。
振り返った矢先、何かが高速で飛んできてイヴの横を通り過ぎた。呻き声がして前に向き直ると、セーレがうずくまっている。カラカラ音を立てて床を転がったのは、ブラックコーヒーの空き缶だった。
「イヴ、ここにいたのか」
また振り返ると、コツコツ一定のリズムで足音を立てて誰かが歩いてくる。
イヴは目を奪われた。
白いコートを着て、鞘に入った剣を提げている長身の青年だった。金色の髪と青い瞳が、薄暗いこの教会で存在感を放ち輝いているように見えた。
綺麗で、大天使みたいだな――
そんなことを本心で思った。
まあ、大悪魔が実在するなら大天使もいるのかもしれない。
「セーレを魔界に送り返すから、離れていろ」
見惚れていたイヴは、そう言われて我に返った。あの肩の紋章を知っている。セーレを傷付けさせるわけにはいかない。咄嗟に動いて両手を広げた。
「近付かないでください」
「俺はルク・オラニエ=マース。エクソシストだから、イヴがしようとしていることを許すわけにはいかない」
青年はイヴを押しのけて進もうとしている。殴りかかって止めようにも絶対に勝てない。心臓が早鐘を打つ。どうにかしないと。イヴは腹の底から声を出した。
「ダメです!」
青年が一歩後退した。怪訝に思ったイヴは、自分と青年の間にガラス板のような半透明の壁が出現していることに気付いた。多分だが、イヴが出した。
「悪魔術を教わっていないのに質のいい結界を出せるようだが、諦めろ」
青年は鞘から剣を引き抜き、軽やかに振るった。
壁は木っ端みじんになり、イヴは悲しくなった。身体から力が抜けそうになって、急に右手を掴まれた。青年にではない。後ろからだ。目線を後方にやると片膝をついているセーレだった。
浮遊感と共に後ろに引っ張られる妙な感覚があった。戸惑っていると、青年が腕を回してイヴの腰を支えた。
けれども引っ張られる感覚は止まらなくて、そのまま視界が暗転した。