【第1話】catholic Re:load(1732A.D.-2275A.D.)

Hertog Luc van Oranje-Maas…

 一五〇年前、ノアの大洪水と呼ばれる天変地異が世界を襲った。

 大勢の人間が死に、生物が住める土地はヨーロッパからカザフスタンまでになって、世界は一変した。

 ほとんど被害を受けずに済んだヨーロッパは、スウェーデンなどの北とポーランドなどの東の諸国を除外してユーロ連邦という新しい国家を築いた。

 ユーロ連邦は資源と技術を守るために鎖国し、国外に手を差し伸べずに切り捨てた。

 建国直後にカトリックの洗礼と信仰を強制する法律を定め、もともとカトリックではなかった国民には改宗か国外移住の二択を迫った。宗教の力で結束させて激動の時代を乗り越えたのだ。

 ノアの大洪水以前からカトリック教会と、そこから派生したホーリーオルデン騎士団というエクソシストの組織が強大な権力を握っていたからできたことだ。

 その後、順調に発展したユーロ連邦はAIの成長で人間の仕事が減ったが、これまでの資本主義から、一部の特権階級を除いた国民のほとんどが平等な経済状況で暮らせる新・共産主義体制に切り替わったため社会問題は発生しなかった。

 政府は富裕層にも一般労働層にも、生まれたその月からベーシック・インカムという一律金額の国民配当を与えるようになり、失業率は常に一%未満に。貧困が消え失せて史上最も豊かな時代を謳歌している。

「ご乗車ありがとうございました」

 自動運転の車内に、抑揚のない機械音声が響いた。手の甲に決済用チップを埋め込むのが当然の時代とはいえ、仕事柄身体に異物は入れられないから、ブレスレット型の携帯電話であるリストフォンで決済している。
 ドアに向けてこれをかざすと、清算が完了して開いた。

 二三歳のエクソシスト――ルク・オラニエ=マースは、タクシーを降りて前方の建物を眺めた。一二階建てのどこにでもありそうな外観。ユーロ連邦ドイツ領の都市ドレスデンの地上階層にある警察署だ。

 駐車場を進み、入口の自動ドアを抜けると無人のエントランスが広がった。奥に進むためにはエレベーターの前にある、今は赤いランプが光っている改札のような機械を通り抜ける必要がある。部外者は検査を受けなければいけない。

 ルクの胸までの背丈の、大きな筒のようなボディに二本の腕が生えた警備用ロボットが近付いてきて、ルクの全身をスキャンし始めた。一分くらい待つと、青いランプに切り替わって通り抜けられるようになった。

 一二階でエレベーターを降りて目的の部屋に向かっていると、途中にドアがわずかに開いている部屋があった。通りすぎざまにチラリと覗くと、壁に今時珍しい画質の悪い映像が流れていた。

 音声はない。

 野戦服を着た黒髪の青年が、足を引きずりながら遺体を運んでいる。

 本物の戦争の映像だ。

 これを視聴する理由は知っているが、警察勤務なのに『そちら』とは珍しいなと思った。

 気を取り直して、ルクはリストフォンに触れて時刻を表示した。

 約束の時間まで二〇分――

「早く到着しすぎたな」

 時間を潰そうと、ガラス張りの壁の前のベンチに腰を下ろした。

 ドレスデンは密集する高層ビル群などに太陽光が阻害される関係で、昼間でも夜間のように暗いところが多い。けれども午後三時過ぎの今、地上も昼間らしい明るさに包まれている。各所に太陽光に似せた明るさを作り出す照明を設置しているからだ。

 今日の天気は陰鬱な曇りらしいから、この晴れやかさは偽りというわけだ。

 そんなことを考え、また、依頼について思いを巡らせているうちに時間は過ぎた。

 ルクは立ち上がり、近くの柱に立てかけられている全身鏡で自分の姿を確認した。

 オラニエ=マース家の人間が代々受け継いでいる金髪碧眼に、白を基調とした生地に深い青のラインが縦に織り交ぜられているスタンドカラーのトレンチコートという出で立ちだ。

 これは一八世紀から度々新しい生地で作り直しているが、デザインは変わらない。肩には聖剣を十字に重ね合わせた紋章を縫いつけている。ホーリーオルデン騎士団の証だ。

 身なりの確認を終えてフロアの最奥にある部屋に入ると、目と鼻の先に一対の革のソファが、その先にはデスクがあった。オフィスチェアに腰かけている、スーツ姿で金髪を撫でつけた渋い雰囲気の中年男性が片手を上げて挨拶してきた。

「久しぶりだな。ルク・オラニエ=マース」

「お久しぶりです。ミュラー警視」

 ミュラー警視は外部の人間がイメージするドイツ系警察官らしい外見をしているが、その表現は差別として問題になりやすい時代だから心の中で思うだけに留めている。

「つい数日前までは、エクソシストを呼ぶとは思っていなかったさ」

 ミュラー警視が、チラリとルクを見た。

「何でしょう?」

「エクソシストをよこしてくれと依頼はしたが、君がくるとは」

「たまたま近くにいたので」

「たまたまか。何か裏でもあるのではないか?」

「警戒心が強いですね」

「俺だからというわけでもあるまい。君は本来小さな案件に関わる立場ではないだろう? 名門貴族オラニエ=マース家の当主であり、ホーリーオルデン騎士団のトップに立つ存在なのだから」

 確かに小さな案件をルクが担当することは滅多にない。しかもルクの家はユーロ連邦ネーデルラント領のアムステルダムにあり、ドレスデンとは距離もあるのだから不自然だろう。

 だが、ここにきた。

 遠い昔からずっと――待ち望んでいた日なのだから。

「君がくると気を遣うから、もっと下の人間にきて欲しかったが」

「正直ですね。さっそくですが、情報をいただけますか」

 ミュラー警視が手のひらを動かすと、奥の白い壁に黒いモニターが現れた。画面が切り替わり、女性の写真と経歴が表示された。

  • イヴ・イェドリツカ
  • 二二五七年三月九日生まれの一八歳
  • 高校三年生 今夏卒業予定
  • リストフォン未所持で決済用チップも入れておらず追跡不可能

 五歳のときにチェコ領のプラハ在住の夫婦に引き取られたものの戸籍は単独とある。つまり養女ではなく『預けられている』という表現が正しい。出生地は不明。数日前に家出して、保護者から捜索願が出されて今に至る。

 イヴは息を呑むほど美しい容姿をしている。写真は自宅の庭を背景に撮影されたものらしい。白いキャミソールを着て白い素肌を出し、警戒心を感じさせる目でレンズを見ている。
 長い銀髪と、灰色がかった水色の澄んだ瞳が儚さを醸し出す。天才芸術家が創作したといえそうなくらい完璧に整った目鼻立ちだ。

 モニターにはこの五年間で彼女が起こした自殺未遂の履歴も載っている。エクソシスト視点でいえば問題は『全て奇跡的に助かっている』ことだが、警察は自殺未遂のほうに頭を抱えている。

 ユーロ連邦では、自殺も自殺未遂も法律で禁止されていて刑事罰に問われる。彼女が今の今まで自由に動けた理由は単純で、未成年だったからだ。数日前までは。そして一八歳を迎えた。成人だ。次死のうとすれば逮捕される。

「このイヴ・イェドリツカには、素行だけでなく感性の問題もある」

「ENSDですか」

「そうだ。五年連続でバイオレンスを記録していてな。時々カウンセリングを受けている」

「自殺願望があるならそれも納得ですね」

 ENSDはこの国で社会問題化している精神的な病だ。攻撃性が著しく低下するノン・バイオレンスもしくは高い攻撃性を示すバイオレンスと診断されると、この病名が適用される。

 穏やかで無害すぎるのは人間の本質からすれば不自然なことだが、この平和なユーロ連邦で攻撃性がありすぎるのも不自然なことだ。中庸であるミドルが正常であると定めた政府は、ENSD発症者への治療を強制している。

 先程の戦争の映像は、攻撃性を上げなければいけない患者の治療に使われるものの一つだ。

「気をつけろよ。魔性らしいから」

「魔性という印象はありませんが」

「途中から女性のカウンセラーだけが担当している。男には反抗的だからというのが表向きの理由だが」

「手を出しそうになってしまう――」

「その通り。性的暴行未遂で三人逮捕された」

「問題ありません。俺はエクソシストですから」

「やはりエクソシストが対応すべき原因があると?」

「はい」

「つまりルク・オラニエ=マースが対処しなければいけないくらい大きな案件だと?」

「それは言えませんが、解決するのでご安心を」

「ああ、うん」

 ミュラー警視の歯切れが悪い。

「この子がドレスデンにくるなんて、因縁を感じてしまってな。俺は刑事時代に、カレル・ヴァインガルデンの事件を担当した」

「ホーリーオルデン騎士団とドレスデン警察署が共同捜査を行った、悪魔崇拝者の事件ですね」

「五歳のイヴの前で射殺するのは気持ちのいいものではなかった。おかげでその後、俺はENSDになって数ヶ月カウンセリングを受ける羽目になった」

 カレル・ヴァインガルデンは、オペラ歌手のマリア・イェドリツカを誘拐して悪魔崇拝の儀式のために殺害した。

 悪魔崇拝者に向き合うのはホーリーオルデン騎士団の仕事だが、人間相手の事件を起こした場合は現地警察との共同捜査になる。

 悪魔崇拝者がオペラ歌手を殺害した事件。最初はそう思われていたが、容疑者が銀髪の女の子を連れて逃亡していたことで誘拐事件の可能性も出てきた。

 警察は抵抗する容疑者を射殺し、女の子を保護した。

 女の子は『イヴ』と名乗り、容疑者のことを『父』と呼び、被害者であるマリア・イェドリツカのことは『母』と表現した。

 だが、遺伝子検査では両者との血縁関係は認められなかった。

 警察の未成年者行方不明リストにも載っておらず、両親が誰なのかいまだに不明。イヴは当時たったの五歳でありながら健気に容疑者の姓を名乗ることを希望したが、警察は許可しなかった。

 代わりに彼女が母親と思っている相手の姓である『イェドリツカ』を名乗ることは認められた。

「何とかしてやってくれ」

「さっそく捜索に出ますので、リストフォンにも情報をお願いします」

「ああ」

 ルクのリストフォンが振動した。指先で触れると、ハガキくらいの大きさのモニターが腕の付近に出てきた。イヴに関するファイルが多数表示されている。

「イヴは今日、ドレスデンの監視カメラに映った。プラハから電車でドレスデンに到着し、駅を出るときしか映らないように考えて行動していたにも関わらず――だ」

「もう映ってもいいと、思っているということでしょうね」

「理由はきっと一つしかない」

 自殺を決行するつもりなのだろう。

 これまで何度も失敗したのに今日は完遂する自信を持っている。その理由はホーリーオルデン騎士団の管轄だ。

「車をお借りします」

 ルクは外に出て乗用車に乗り込み、フロントガラス越しに空を確認した。相変わらず高層ビル群に邪魔されてはいるが、灰色の雲のごく一部が、その先にある本物の太陽に照らされて光を含有しているのがわかった。

「イヴ……俺は今度こそ君を死なせない」

 ルクは大昔からイヴだけに恋している。
 『今世』の彼女も、ルクと触れ合った過去生とまったく同じ顔、髪、瞳で、同じ名前だ。
 人間は死ぬと魂の世界に還り、記憶がリセットされてまた人間に転生するが、通常は過去生とは別人になる。
 けれどもイヴは、どの時代のどこに生まれてもイヴ本人なのだ。外見も中身も変わらない。

 ルクに会いにきて欲しいとイヴの魂が強く願うからそうなるのだと、自惚れのようなことを気が遠くなるくらい長い時間信じ続けてきた。

 再会に胸が熱くなり、落ち着かない。

 自動運転モードにして街に向かおう。資料を基にイヴがいるかもしれない場所を八箇所まで絞り込んだ。