【第4話】catholic Re:load(1732A.D.-2275A.D.)
Hertog Luc van Oranje-Maas…
一七二六年 一〇月 神聖ローマ帝国 ウィーン
多数の領邦や帝国都市で構成された多民族国家の神聖ローマ帝国を統轄するハプスブルク家はカトリックだが、プロテスタント勢力が反旗を翻したことで一六一八年から一六四八年まで戦争が続いた。
この三〇年戦争と呼ばれる出来事は単純な宗教対立ではなく、領土問題、主権問題も複雑に絡み合っていた。
オラニエ=マース家はカトリックだが、最初から三〇年戦争に参戦していたわけではない。当時のネーデルラントはスペイン相手の独立戦争の最中で、慎重にならざるを得なかったのだ。
オラニエ=マース家の城があるマーストリヒトは、支配国スペインの意向でカトリックが手厚く保護された都市だった。エクソシストの始祖であるオラニエ=マース家は当然丁重に扱われ、制限なく采配を振ることができた。
そこで時機を見て三〇年戦争後期からハプスブルク家を支援して参戦した。
これによりカトリック陣営は形勢逆転で大勝利。ヴェストファーレン条約の締結で終戦を迎え、プロテスタント陣営の領主や貴族の主権や外交権は一切認められず、彼らは神聖ローマ帝国から離脱できなくなった。
この戦勝で神聖ローマ帝国は最盛期に突入し、一八世紀になっても繁栄が続いた。
オラニエ=マース家が干渉しなければ――違う歴史が誕生していただろう。
ヴェストファーレン条約ではネーデルラントの独立も認められたが、オラニエ=マース家は神聖ローマ帝国の領邦になる道を選び、ハプスブルク家に売った恩で権力を握ることに成功した。
このときのルクは一二歳の子供で、数日前に部下のエクソシスト二名とハプスブルク家が居住するホーフブルク宮殿に引っ越してきた。
少年とはいえ、転生を繰り返して全ての記憶を引き継いでいるから経験は豊富だが、人間である以上年齢で多少は精神面が左右される。子供といえば子供なのだ。
子供は政治的な関心をあまり向けられないから気楽だった。庭園を散策するのも自由だ。
冴え冴えとした秋晴れの空の下、近衛兵も従者もいない静かな芝生でのんびり過ごしていたら、背後から声をかけられた。
「あの――」
振り向くなり、ルクは衝撃を受けて固まった。そこにいた少女のあまりの美しさに見惚れてしまったのだ。
「人間ではありませんよね?」
長い銀髪が花柄のドレスにかかっている。瞳は灰色がかった水色で、濁りのない純粋な眼差しでじっとルクを見ている。奥底まで見透かされているかのようだったが、不快ではなかった。
「大悪魔でもありませんね。大天使ですか?」
「俺は……人間だ」
「人間には見えませんが」
「俺のどこに違和感があるか教えてくれないか」
「外見は私より少し上くらいに見えますが、纏っている雰囲気というか印象が子供ではありません。感覚的なものなので表現するのは難しいですが」
「それだけか?」
「あとは魂の感じでしょうか」
「とても抽象的だな」
「はい。私は大悪魔さんたちを見慣れているので、違いに敏感なんです」
大悪魔を見慣れている?
ルクは改めて少女の銀髪に注目した。ある貴族の当主と、その子供が受け継ぐ髪色と言われている。
彼女は――
「イヴ・エリゼヴァ・フォン・ベルツシュタットと申します」
やはり、そうか。
ベルツシュタット家は魔術師の始祖の一族だ。エクソシストが天使術を駆使するのに対し、彼らは悪魔術を使う。
大昔にオラニエ=マース家との間で死者が出る戦いをしたことはあるが、今は距離を取って共存している。
ベルツシュタット家は神聖ローマ帝国で差別されているユダヤ人でありながら、ハプスブルク家の寵愛を受けて男爵の爵位を得た。貴族間の争いは厄介だし、彼らは悪魔術で誰かを殺したり私利私欲に走ったりしないから、見逃すようになったのだ。
「俺はルク・オラニエ=マースだ」
「オラニエ=マース……エクソシストの始祖であるネーデルラントの公爵?」
「ああ」
「そうですか。家同士はとっても不仲ですが、子供には関係ありません。私は今暇なので、一緒に遊んでくれませんか?」
「別にいいが」
「あなたが人間だと言うなら、人間として接します」
「俺の認識が正しければ、ベルツシュタット家の当主は自分の子供とカトリックの子供が接触しないように制限しているはずだ」
「はい。カール六世の息子であるレオポルト様以外のカトリックの子とは遊んではいけないと言われています」
イヴはさもどうでもいいという態度で言い放った。
ユダヤ人はかつて違う土地から移住してきた流浪の民だが、イヴはどこからどう見てもドイツ系にしか見えない。神聖ローマ帝国の人間が思うユダヤ人の外見的特徴は一つもない。
それもそのはず。
ユダヤ人が差別される神聖ローマ帝国で成り上がるために、ベルツシュタット家は明るい髪と瞳のドイツ系をユダヤ教に改宗させて結婚を繰り返してきたのだ。
しかも結婚相手は美形であることを重視し、孤児や貧しい家柄でも理想的な容姿であれば高い金を出して買って迎え入れたという。
ドイツ系の容姿を手に入れて周囲を安心させ、美しい顔で貴族からの寵愛を得る。遂には神聖ローマ帝国の皇帝に取り入ることにも成功した。
成り上がるためだけに、子孫の人種をドイツ系にする――
気が遠くなるような時間がかかることを、一族が一糸乱れず同じ方向を見据えて進める。普通の神経であれば『バカバカしいこと』と捉えてできない。
彼らが特別になれたのは、そんな『バカバカしいこと』を本気でやり遂げたからだ。
神聖ローマ帝国では通常、ユダヤ人たちはゲットーと呼ばれる専用の居住区で暮らさなければいけないが、彼らは例外だ。
ユダヤ人である以上領土も土地も持てないという制限はあっても、他の貴族がないがしろにできない地位であるのは間違いない。
「私はレオポルト様の遊び相手としてここに頻繁に呼ばれます。同い年ですから」
「君はさっき暇だと言っていたが」
「レオポルト様は今日、体調が悪いみたいなので」
レオポルトは皇帝であるカール六世の子供のうち唯一の男児で次期皇帝だが、とても病弱という噂だ。
「俺は数日前からここに住んでいる」
「ホーフブルク宮殿に……ですか……?」
「ああ。家を継ぐ日まで、皇帝の傍でエクソシストとしての務めを果たすためだ」
「ハプスブルク家にはエクソシストが必要ということでしょうか?」
「ハプスブルク家のように様々な思いをぶつけられやすい地位にいる貴族には、浄化できるエクソシストが必要だ」
「お仕事を見せてもらえますか?」
イヴがルクの服の袖を引っ張った。
「ついてきてください」
言う通りにすると、垣根で死角になっている一画に手のひらサイズの黒い影が漂っていた。
「人間の嫉妬や憎悪の念が具現化したものです」
正解だ。放置すると土地が穢されて低級悪魔を呼び寄せる。
ルクが影の上に手を差し伸べると、降り注いだ光を浴びた影が少しずつ小さくなった。
「凄い。浄化されていきます」
「魔術師の一族が、これを喜ぶのか」
「私たちは大悪魔と契約しています。大悪魔も位によっては大天使に匹敵する神聖な存在です。このような異形とは違うものです」
言い返すことはできない。
大悪魔の世界には序列という概念があり、人間界の基準に照らし合わせて爵位と表現する。王や公爵など高い位を持つ大悪魔は元大天使ばかりだし、彼らの存在は単純な悪ではない。
そんなことを考えていたせいか、油断した。
おとなしく浄化されていると思っていた黒い影がネズミのように素早く飛び出し、イヴに襲いかかろうとした。
「イヴ!」
ルクは慌ててイヴの身体を抱えて倒れ込み、逃げようとする影に人差し指を向けた。
次の瞬間、影は音を立てずに爆発し、血飛沫のようにバラバラに舞った。
あんな弱い念に対し、一撃の威力を高めすぎた。残骸が少しずつ薄れていく様子を眺めながら、ルクは溜め息をついた。
大人の身体になれば絶対にないことだが、子供の身体だとやりすぎたり逆に弱かったり調整を誤ることがある。
「すまない。油断していた」
「これ、落ちました」
イヴが差し出したのは豪華な装飾の懐中時計だった。ルクは受け取ってポケットに戻した。
「ありがとう」
「綺麗な懐中時計ですね」
「父上からもらった。裏側に自分の名前が彫られているから恥ずかしい」
「素敵だと思――ルク!? 血が出ています」
指摘されなくても、自分の手の甲が赤く染まっていることは知っていた。イヴを庇ったときに擦りむいたのだ。
「平気だ」
「痛いって言わないんですか? いいえ、質問を変えますね。どう言えばいいのかわからないんですか?」
ルクは目を丸くした。そんなことを言われたのは初めてだったから。
「大悪魔さんたちもそうなんです。だいたい聞かれたことしか言いません。伝達のために言葉を使うのは人間界にきたときだけで、魔界とは違うからなかなか慣れないらしくて」
「天界や魔界では言葉ではなく直接想いを伝え合うから、意思疎通で齟齬が発生することは絶対にない。言葉を用いらなければ伝え合うことができない人間界は、伝えたいことが上手く伝わらないこともあるし難しい」
「よく知っていますね」
「エクソシストの基礎知識だ」
嘘を吐いた。ほとんどのエクソシストは知らない。ルクがこれを知っている理由は、ルクの正体がイヴの見抜いた通りだからだ。
「ルクも言葉での伝達は得意ではないようですね」
「そうかもしれない」
「それではルクが気持ちを言葉にしやすいように、いつも私が質問を投げかけますね」
イヴがハンカチを取り出して、ルクの手の甲に優しく当てた。
「痛いですか?」
ハンカチが血を吸い込んだ。高級品だろうに、父親に叱られないだろうか。
「もう一度聞きますね。痛いですか?」
「……痛いけど、平気だ」
「私にして欲しいことはありますか?」
「君の手に触れたい」
「どうぞ」
差し出された手に触れて、ルクはイヴの内面を徹底的に探った。
これは『思念可視』という特殊能力で、生きている人間相手に触れた状態で発動すると気持ちを読み取ることができる。
方向性は大天使や大悪魔のコミュニケーションに近いものだが、こちらの想いは伝達できず受け取るだけだから不便ではある。
「君は……変な奴だな」
「突然失礼ですね」
「すまない。言葉が悪かった。個性的だな」
「私、何となくこの世界は居心地が悪くて。大悪魔さんたちと一緒にいるほうが楽なんです。だからあなたに話しかけました。あなたは普通ではないでしょうし、大悪魔か大天使なら仲良くなれるかもしれないと思って」
「俺は人間だ。だが、普通ではないのは当たっている。何度も転生しているからな」
「転生は初耳ですが、オラニエ=マース家では定期的に子孫に『ルク』という名前をつけると聞きます。噂では『ルク』は容姿も同じになるとか」
「その通りだ」
「神様が無意味にそうさせるわけがありません。あなたは『ルク・オラニエ=マース』として使命を抱えているんですね」
ルクはまだ、こんな突拍子もないことを深く追及せず、当然のように受け止めている感受性豊かなイヴの手を離せなかった。
人間界のルールを重視するなら、言葉を使って探り、伝えるべきだ。だからルクは生きている人間にはできるだけ思念可視をしないよう気をつけているが、今は止まらなかった。
イヴのことを、何の相違も起こさずに知りたかったからだが――
“もっと仲良くなりたい。あなたのことをもっと知りたい”
その気持ちを感じ取った瞬間、パッと手を離して思念可視を切断してしまった。
「ルク?」
自分の顔がとても熱い。イヴを直視できない。胸がドキドキして、困惑した。
「何でもない」
イヴが芝生に寝転がって、空を見て言った。
「知っています? 人間って亡くなるときは上を見るんですって」
「いきなり何を言う。子供が出す話題ではないだろ」
「隣に看取る家族がいても、上を見るんですって」
とりあえずルクも、隣に転がって空を見上げた。
白い雲の輪郭がはっきりしていて、こうやってじっくり見てみると夏の名残を感じさせた。
「何でだと思います?」
「俺にはわからない」
「私は、きっとそこに神様や大天使の存在を感じるからだと思っています」
イヴはそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに時が流れたが、沈黙も嫌ではなかった。
ふと視線をやるとイヴは眠っていた。
それでまじまじ観察した。当然だが、大天使でも大悪魔でもない。
綺麗な目鼻立ちで、他の誰とも違う清廉な雰囲気を纏っている。まるで大天使みたいだ。美形しかいないと有名なベルツシュタット家の人間だとしても、際立ちすぎている。
極まることは、幸福だろうか?
一抹の不安が頭をよぎった。
イヴは――この先の神聖ローマ帝国で火種になる可能性がある。
「俺も、君ともっと仲良くなりたい。君のことを知りたい」
ルクは人間として生きているが、その正体は大天使だ。
天界では常に青年の姿をしている。容姿は青年になったルク・オラニエ=マースとまったく同じだ。
大天使ミカエルたちと鍛錬して剣術を磨き、酒を酌み交わした。
時には大悪魔とも戦った。
白い翼をはためかせて空を漂い、楽園も歩いた。
それらは天界での出来事で、人間界の言葉で表現するなら――幻だ。
人間界は天界と違って、実体が存在している。
時間という枠がある。永遠でも無限でもない。制約がある。
人間になる前、大天使の身体のままで地上に降りたとき、観察した。
走り回る子供たちを――
少し歩けば息を切らし、壁に寄りかかる老人を――
恋人から送られてきた別れの手紙を破り捨てた青年を――
貧しさのせいで子供を救えず涙を流した母親を――
ただ傍で、見守った。
彼らを知り、学び、地上でもやっていけると思った。
『大天使としての使命』を果たすと誓った代わりに、神が人間の身体を与えてくれて『ルク・オラニエ=マース』が誕生した。
ルク・オラニエ=マースとして人間界の一員になり、どこにでも行けるようになった。
どの土地に居を構え、どの国を支援して戦争に勝たせて発展させるか、全てが自由だ。
ずっとなってみたかった人間になったのだ。
寿命がきたら死んで大天使に戻り、記憶を引き継いで五代後の子孫になってまた人間として地上に降り立つ。
そうやって人生を繰り返し、使命の先の結論を出すための過程にいる。
支障があるから、正体が大天使であると気付かれてはいけない。オラニエ=マース家の人間だって、ルクの正体は知らない。エクソシストの始祖だから義務と宿命で転生を繰り返すのだと捉えている。
けれどもイヴには一瞬で正体を見抜かれた。初めてのことだった。
人間として接するとは言ってくれたが、ルクに気を遣っただけで大天使と認識したままなのは思念可視でわかった。
そしてこれにもとても驚いた。イヴはルクの大天使としての名前を把握している。口には出さなかったが、心の中で本当の名前を呼んでくれた。
その瞬間、ルクは孤独ではなくなった。
信じられないことだ。隠し事がバレたくらいで物事が簡単になるなんて――